エゴと貢献欲と、自由に生きる勇気。

仕事に行きたくない。

 

どれぐらい行きたくないかというと、それはもう、どうしようもなく行きたくない。

 

布団から起き上がりたくない。

顔を洗ってコンタクトを入れるのさえ億劫だ。

 

私がコンタクトを入れるのは、仕事の時だけだ。

ワンデーの使い捨てコンタクトを入れてしまえば、私はもう、仕事に行かなくてはならない。

でないとコンタクト代がもったいないからだ。

そういう謎な自分ルールが、私の中にはいくつかある。

 

キッチンの床に座って、袋から出した食パンを焼かずにそのままかじる。

味なんかよくわかない。口の中がモサモサする。めちゃくちゃ美味くはないってことは分かる。

今からでもトーストしてバターとジャムを塗れば、もう少しマシにはなるだろう。

だがとてもそんな気分にはなれない。

 

乾燥気味の食パンの最後を麦茶で流し込み、今日の衣装を選ぶ。

私の衣装は少ない。オールシーズンで使えるタイトスカートが2種類あって、あとは気候に合わせてトップスを変えるだけだ。

まあ、とても、地味だ。

 

仕事用の下着に替え、メイクポーチと衣装と鞄に押し込み、「行きたくないわー!」とやや大きめの独り言を吐き出してから、玄関のドアを開ける。

 

 

 

【初めての、出勤したくないモード】

 

書いた通りだ、仕事に行きたくない。

仕事とは風俗プレイヤーのことで、風俗プレイヤーの仕事に行きたくないって話だ。

 

ここのところ私は、風俗に出勤する意味が分からなくなっている。

出勤する理由はいくつかある。だが、納得できていない。

 

 

 

私はもともと物欲というか、お金で得られるものをあまり欲しがらない。

欲を出せと言われればいくらでも出せるが、別にそれらの欲が満たされなかったところで特段ダメージは受けず、無きゃ無いで日々を楽しめる。

 

必要最低限の生活費で生活をして、余ったお金は貯蓄にまわす。

たまにどうしても使いたい画材や画集、仕事で要る機材や自他の健康に必要と感じたものにはお金を使うが、基本は貯金が好きだ。

ブランド物への関心は薄く、服や鞄などはほぼ古着屋で済ませ、日用品はドラッグストアの特売日に一気に買ってストックしている。

 

それなのに、家族にはお金をかけたくなる。

息子との外出先での出費、夫の仕事環境を整えるために必要なもの、父の健康管理の為の体重計や血圧計など。

家族が欲しいと言うもの、家族が喜んでくれるものがお金で買えるなら、私の財布の紐はとたんに緩む。

 

家族と生きて行くため、家族との快適な生活のために風俗でちょと多めに稼ぐことなんて、私にはかんちこちんだったのだ。

 

 

 

だがここ一年で、私の環境は大きく変わった。

 

息子は別居中の夫と暮らすようになった。

その夫も就職し、息子の養育に必要な毎月の収入をちゃんと稼いでくれて、夫自身の娯楽費までカバーしている。

さらに私の風俗入りの火付け役になってくれていた実家の借金も、返済する必要が無くなる方向で話が進んでいる。

 

さて、いよいよ私はわからなくなった。

なぜ私は風俗で働いているのだろう。

 

今までは多少辛くても、家族を守りたい一心でやってこれた。

 

独身時代は実家の借金返済と、母の老後の生活を安定させたくて。

結婚してからは、パートナーにより快適な環境を提供したくて。

子どもが生まれてからは、家族3人で一緒に暮らし続けられるように。

 

めっちゃ働いて、めっちゃお金を使ってきた。

 

息子が私のそばを離れ、夫も仕事をしてくれるようになり、実家の借金返済も必要なくなった今、短時間で高収入の仕事を選ぶ意味も必要性も分からなくなり、混乱し、風俗人生で初めてのマジ出勤したくないモードに直面することとなる。

 

と同時に、自分のためだけに風俗で働くことにあまり意味を見出していないことに気づく。

 

自分のために風俗で働けない。

それはつまり、私は今まで風俗で働く理由を他者に押し付けてきたのとも取れるのではないか?と、考えるきっかけとなった。

 

 

 

 

【誰かのため、誰かのせい】

 

それでも私はまだ、風俗プレイヤーに片足を突っ込んでいる。

めっちゃレア出勤だが、一応籍は置いてある。

 

どんなに仕事に行きたくなくても、涙でコンタクトが入りにくくても、電車に乗る前に胃の不快感に見舞われても、なんだかんだで出勤時間に間に合わせる。

 

先にも書いたが、出勤する理由はある。いや、あった。

堅い理由と強い意志があるはずだった、が、それらを一旦崩して整理する時が来たのだろう。

 

 

 

遡って考える。

 

一年前、息子と二人で実家に帰ってきたとき、貯金はとっくに底をついていた。

 

すぐに仕事探しを始めるものの、保育園も決まらない幼児を連れた片親は、実家住まいでも面接に落ちまくる。

風俗業をしながら職を探し、風俗業で申請した保育所が決まり、なんとか近所のスーパーでパートが決まった。

パートの収入だけでは苦しく仕事を増やしたいが、息子と過ごす時間はできるだけ減らしたくなくて、短時間で高収入を狙える風俗に時々出勤した。

 

 

 

一年前のその前、別居直前、まだ家族3人で暮らしていた頃も、半年ほど風俗をしていた。

 

主な活動場所が東京だった講師やコンサルなどの仕事を一旦休ませて、関西の自宅で家族と過ごす時間を取っていたのだが、2ヶ月も経つ頃には貯金を切り崩す生活に不安と限界を感じるようになった。

しばらくして、家族と過ごす時間と生計を立てられるだけの収入を同時に手に入れやすい、風俗プレイヤーの仕事に復帰することとなる。現場は数年ぶりだった。

 

夫に心配をかけたくなくて、その日にあった楽しかったことや嬉しかったこと、特に待機室での女の子達との会話なんかを意識的に拾い、夫に面白おかしく伝えるように努めた。

嫌だったことや辛かったことは極力言わなかった。

 

家族3人での生活を続けられるなら、風俗なんて全然しんどくなかった。

むしろ楽しんでやろうと意気込んだ。

 

 

 

そうだ、あの時だって、あの時だって、いつだって

息子と過ごせるなら、家族で生きていけるなら、多少の抵抗にフタをして風俗を選択できた。

 

息子のために、家族のために、風俗をしているだなんて、思わないようにしていたけれど

私は私が息子や夫と過ごしたいがために、自分の都合で風俗を続けているのだと思おうとしていたけども

きっとあまり上手くできてはいなかった。

 

思わないようにしていただとか、思おうとしていただとか。

そんな言葉で表現すること自体、心からそうできていなかった証拠ではないだろうか。

 

息子や夫が心の支えになっていたのは確かだ。

別居してからだってそうだ。どんなに悲しくても苦しくても凹むことがあったとしても、家に帰ってくれば大好きな息子がいる。

その安心感は大きかった。

 

 

 

息子が私の手を離れ、夫が就職し、借金も返済しないで良くなった。

お金を稼がなくちゃ、という強迫観念のようなものが消え、私は突然自由になってしまった。

 

自由とは、自己責任だ。

風俗をする理由が、以前よりも自己都合の形で浮き彫りになる。

いや、前からずっと自己都合だったはずなんだ。

 

「息子がいるから風俗も頑張れる」

「家族が私の収入を必要とするなら風俗も頑張れる」

 

綺麗な言葉に聞こえるかもしれない。

でもそれは、逆に言えば

 

「息子がいなくちゃ風俗を頑張れない」

「家族が私の収入を必要としないなら風俗を頑張れない」

 

ということではないだろうか。

 

心のどこかで「誰かのために」で風俗をしていた自分が露出した気がした。

 

「誰かのために」が「誰かのせいで」を孕み、次第に膨らみ、いつか爆発してしまう悲劇を知っている。

言い訳はしたくない。風俗で働くことを誰かのせいにしたくない。

 

この先も風俗プレイヤーを続けるのなら、より自己中心的な行動原理を自覚しなくてはならない。

 

私は私の理由で、風俗業界と関わる。

その距離感や関わる形について、改めて向き合う日が来てしまったのだ。

 

 

 

 

【もう一つの理由】

 

自分ヒトリが生きるために必要な、最低ラインの収入があればいい。

そうなった時、実はあまりお金は要らない。

 

風俗への出勤が億劫になったのは、短時間で高収入を得る必要性を感じにくくなったから、だけではない。

過去にはもう一つの大きな理由があった。

 

 

 

流行り物に疎く、たいした物欲もなく、朝から晩まで絵ばかり描いている飾り気のない田舎娘だった私が風俗を始めたきっかけと、今は失ったもう一つの理由について、簡単に書いておく。

 

 

 

鬱だった。

 

毎日死にたくなる自分を生かすのに必死だった私は、実家の借金を全額返済するまで絶対に死なない目標を立てて風俗業界に足を踏み入れた。

借金返済を両親から頼まれたことなんて、一度もない。ただ生きる口実が欲しかった。

 

初めての店は客層が悪く、当時の私には知識も勇気も力もなく、今思えば相当酷い目にあっていたが、あの頃の自分にとってはそれがちょうどよかった。

 

目的は本当にお金だったのか、自傷行為としての業界入りだったのか。どちらが先かは分からない。

出勤すればするほど自分を痛めつけることができて、さらに実家の借金も減らせるなんてラッキー!って感じだった。

 

昼間は派遣社員で、会社の後にメイクと髪を少し変えて、そのまま風俗店に出勤する。

会社が休みの日はずっと店に居た。

 

より傷つくための鬼出勤。

自分は他人から傷付けられるにふさわしい人間だと信じて疑わなかった。踏みつけられて虐げられて、ボロボロになればいいと思っていた。誰かの感情の捌け口、サンドバッグのような生き方、それが丁度良いと思っていた。むしろそうでなければ生きていてはいけないとさえ思っていた。

 

サンドバッグとして人様の役に立つことで、やっと私に生きる価値ができる。

実家の借金を返すために行動をすることで、やっと生きる口実も手に入れた。

 

時が経ち、いくつかの店を廻り、ランクインするようになってからは周りの私に対する接し方も柔らかくなってきたが、人気が出れば出るほど自分の価値を他人任せにする悪癖に拍車がかかった。

 

いつも予約がいっぱいだった。売れる風俗嬢の自分に価値を感じた。

同時に風俗嬢ではない自分は無価値だという信念が、より一層強くなった。

 

自分が自分に価値が感じられない時、風俗はとても分かりやすい。指名数やランキング、収入など、数字で出してくれるからだ。

店が示してくれる数字に自分の価値を当てはめて、まだ生きていいんだと確認しながら生きるのは、当時の私にはとても楽だった。

 

誰かから欲されていない自分なんて、この世に要らなかった。

風俗嬢以外の生き方が分からなかった。

 

だが今は、変ってしまった。

自分に価値を感じる。

 

誰かの捌け口でもサンドバッグでもなく、連続No.1の風俗嬢でもない、ただ生きている自分に価値を感じている。

 

理不尽に対して怒りを感じられるようになった。

あの頃自分にふさわしいと思っていた他者からの攻撃、心や身体への暴力、失礼な関わりなど、今はもう受け入れたくない。

不躾に鬱憤をぶつけられる事に、NOを言う。

 

仕事でもプライベートでも、やりたいことしかやりたくなくなった。

そんな自分が好きで、その思いを尊重したい。

 

そういうわけなので、やりたくないことに遭遇しやすい(と現状感じている)風俗プレイヤーの仕事をすることに、抵抗を感じているのだ。

 

 

 

【エゴの自覚】

 

話しを戻そう。

 

息子が私の手を離れ、夫が就職し、借金も一旦は返済しないで良くなった。

これまで時間や金銭面など何かと都合の良かった風俗プレイヤーという仕事が、別にそこまで都合の良い仕事とも思えなくなってきている。

 

では、私が今後風俗プレイヤーを続けるとしたら、それは何故なのだろう。

 

 

 

風俗プレイヤーの仕事は学びが多い。勉強という面では続けたい思いもあるが、風俗プレイヤーで生計を立てていきたいとまでは考えていない。そこそこの収入は欲しいが、人気嬢になりたいわけでもない。

成績やランキングで一喜一憂したり数字を追いかけるのは苦手だし、他者比較をするのもされるのも嫌だし、他者との競争に混ざりたくないのが本音だ。

 

風俗プレイヤーでの仕事は自分が本当にやりたい仕事が安定するまでの繋ぎであり、生活できる分のお金がもらえればいい。収入を得るための一つの手段に過ぎない。

あとはプレイヤーとして現場に出ることで得られるもの、たとえば同業者へのコンサルや講習の時に提供できる何かであったり、性教育の分野で活動をしていく上で誰かに役立ててもらえる情報とか、そういったものが増えたら良いなという期待を少だけ胸に潜め、密かにアンテナを立て、淡々と出勤するまでだ。

 

 

 

必要最低限の生活費以上のお金と、この先の収入の得かたについても、少し触れておきたい。

 

何度も言うが、私はもともとあまり欲がない。

放っておくと現状維持でなんとなく満足した気になってしまって、それ以上積極的に成長や改善をしようとしない。

だからときどき自ら尻を叩く必要があるのだ。

 

 

 

お金が欲しくない訳ではない。

もらえるもんは欲しい。

できれば本当にやりたい仕事で稼げる自分になりたい。

 

誰かのために何かをしたい、そういう感情が無くなったわけではない。

きっと完全には無くならないし、無くさなくてはいけないものでもない。

原動力としての使い方を間違わないように、気をつけてあげればいい。

 

たとえば私は息子のために貯金がしたいと考えている。それこそ子どもが生まれた5年前から考えている。あの頃からすでに貯金頼りのほぼ無収入生活で、新たに貯蓄なんてできなかったけれど、これからは少しずつでも貯めていきたい。

それに風俗業界含め、私がこれまで生きてきた中で経験したことや体験してことが誰かの役に立って欲しいという願いは、もう20年以上ずっと変わらない。表現の形は変わっても、この想いの軸はこれから先もブレることがないだろう。

 

自身の経験や体験、それらで得た知識やスキルで世間に貢献したいし、それで生計を立てたい。

少し余分に稼いで、息子のための貯金もしたい。

 

だがやはりそれは、私がそうしたいからであって、私のために私がすることなのだ。

 

息子のために何かをしたいと感じる、私の、ため。
誰かのために何かをしたいと感じる、私の、ため。

 

いつもエゴイズムと共にあり、自己を満たしたい欲求が根源にあることを忘れないようにしたい。

 

 

 

 

では、また。

 

 

 

この記事を書いた人

mari 珍

mari 珍

mari珍
コーチングカウンセリング
風俗技術接客講師
写メ日記コンサル
マッサージ(性感ケア対応)
イラストレーター等。